ひらく*つくる*暮らす

人生とは、自分でいくつもの扉をひらき、こつこつとつくりあげていくもの。イタリアと鳥取に住まうアラ還国際婚夫婦が、幸せになるヒントを追求&発信するblogです

『103歳になってわかったこと』(篠田桃紅)

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(5)「百歳はこの世の治外法権

 Fabが日本に来たとき、とても奇異に感じたことは、日本人のほとんどが一人で行動していることだそうです。そう言われれば、街を歩いている人々の多くは一人ですし、レストランやカェで一人で飲食をすることはごく一般的な光景です。一方、イタリア人はいつも誰かと一緒に行動します。一人でレストランへは絶対に行かない。というか、一人だと奇異な目で見られるので、恥ずかしくて行けないというのです。もし、一人で居たとしても、片手に携帯電話をもっていつも誰かと話をしている、それがイタリア人です。携帯電話は、寂しがり屋のイタリア人にとっては夢のような道具で、今やそれ無しでは生きていけないだろうと思えるほど。Fabの娘が日本に来たときも、友だちが恋しくて恋しくて、ずっと電話やメールをしていました。イタリアでも、眠っているとき以外は、いつも家族あるいは友だちと一緒です。特に、高校生になると、夜のお出かけも、1週間ほどのバカンスも友だちと共に過ごすのがイタリアの慣習のようです。クリスマスは家族と過ごして、新年の休日は友だちとすごす・・・という具合です。そこまで一緒だと疲れないのかなぁ・・。もちろん彼女も友だちとのいざこざで頭を抱えている時もありますが、多少のトラブルよりも友を失う方が怖いというのが本音のようです。
 イタリア人と日本人の違いを考えたときに、他者への配慮、気遣いのあり方が違うのだと思います。日本人は、あれこれと多方面から考えて過度に気遣う―たとえば、意にそぐわないので断りたいが、そうすると相手の気分を害してしまうのではないか。後々やりづらくなるくらいなら我慢してつきあった方が無難―のに対して、イタリア人は、いやならいやと言えばいい。あれこれ理由を考えたり作ったりする必要もなく、その話題はそれで終わり。後を引かないというか、相手もあっさりしたものです。日本人が一人で居ることが多いのは、一つのことから派生する様々なことに思いを巡らして(過去・現在・未来をいった時間軸でも)判断するものだから、気遣いに疲れるはずです。それは、予定の立て方でもよくわかります。一緒に食事をする約束でさえも、1ヶ月も前からスケジュールや気持ちを整えて決める日本人に対し、当日の午後になって「一緒に夕食に行かない?」と誘うイタリア人。気楽さが違うのですよね。
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 私は生涯、一人身で家庭を持ちませんでした。どこの美術家団体にも所属しませんでしたので、比較的、自由に仕事をしてきましたが、歳をとるにつれ、自由の範囲は無限に広がったように思います。自由というのは、どういうものかと考えると、今の私かもしれません。なにかへの責任や義理はなく、ただ気楽に生きている。そんな感じがします。・・(中略)・・
 百歳はこの世の治外法権です。私が冠婚葬祭を欠かすことがあっても、誰も私をとがめることはしません。・・(中略)・・しかも行けば行ったで、先方はたいそう喜んでくれます。
 今の私は、自分の意に染まないことはしないようにしています。無理はしません。・・(中略)・・自由という熟語は、自らに由ると書きますが、私は自らに由って生きていると実感しています。自らに由っていますから、孤独で寂しいという思いはありません。むしろ気楽で平和です。(pp.13-15)
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