ひらく*つくる*暮らす

人生とは、自分でいくつもの扉をひらき、こつこつとつくりあげていくもの。イタリアと鳥取に住まうアラ還国際婚夫婦が、幸せになるヒントを追求&発信するblogです

『103歳になってわかったこと』(篠田桃紅)幻冬舎

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(3)「あなたの人生を枠におさめない」

 「もう歳だから・・・」という言葉は、男性よりも女性の方がよく使っているのではないでしょうか。また、《他者からどう見られているのか》、常に他者からの評価が気になる、体裁を気にする人ほど、この言葉を使っているようにも思います。
 (1)「自分の心が、ほどほどを決める」でもありましたが、自分の本意を問う基準が自分の外にある価値基準に差配されているということですよね。そういった意味では、私自身は、誰に相談することもなく、これまでの人生を選択してきたように思います。人からは意外に思える選択をするものだから、「なんで?」とか、「そうしたいけど、自分には無理だわ」とか言われます。そこには、普通の判断ではない、変わっている、かなりの個性派という意味合いが含まれているようです。自分ではごくごく普通の人間だと思っているのですが・・・。
 日本人は、特にその傾向が強いように思います。ファッションの流行にしてもそれがよくわかります。街を行き交う女性が、今流行のよく似たデザインの服を着て歩いています。イタリアに行くとそれを感じることがないのです。「流行のデザイン」がわからないほど、自分の好きなデザイン、好きな色を好んで着ているのです。ですので、日本では派手すぎる服、流行でないもの、ハンドメイドの服でも気楽に楽しんで着られます。デザインよりも品質、オリジナリティの方が重視されているようです。イタリア生活で着る物については自分なりに楽しめる私ですが、その他のことについては指示待ち(たぶんいろんなことに自信がないので)になってしまっています。どんな料理が食べたいのか、どこに遊びに行きたいのか、今日は何をしたいのか・・・などなど、イタリアの家族は、常に私がどうしたいのかと問います。そして「あなたのしたいように」と、答えを待つ。その姿勢は変わらずにあります。そういった意味では、イタリア人は、どんな答えにも応じる広い受け皿をもっているようにも感じます。
 こう考えてくると、自分の自分に対する自信(自己肯定感)をどう育ててきたのか(育てられてきたのか)が大きく関わっているのだろうと思われます。他の色に染まって無難に生きるのか、他の色に染まらず自己を磨くのか、これまで生きてきた経験そのものから、私達は自分をつくって生きているのだと感じます。
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 歳相応という言葉がありますが、百歳を過ぎた私には、なにをすることが歳相応なのかよくわかりません。しかし、「年甲斐もなく」とか、「いい歳をして」とか、何歳でなにをするかということが人の生き方の指標となっています。・・(中略)・・  派手な身なりなどをしていると、歳のわりには若づくりをしている。おそらく私のことも、「いい歳をして、まだあんなこと言っているのね」と言う人はいるでしょう。人を批評するのに、年齢はたいへん便利な言葉です。
 私は歳には無頓着です。これまで歳を基準に、ものごとを考えたことは一度もありません。なにかを決めて行動することに、歳が関係したことはありません。この歳になったからこれをしてはいけない、この歳だからこうしなくてはいけないと思ったことがないのです。自分の生き方を年齢で判断する、これほど愚かな価値感はないと思っています。(pp.44-46)
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