ひらく*つくる*暮らす

人生とは、自分でいくつもの扉をひらき、こつこつとつくりあげていくもの。イタリアと鳥取に住まうアラ還国際婚夫婦が、幸せになるヒントを追求&発信するblogです

『103歳になってわかったこと』(篠田桃紅)幻冬舎

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(8)「いい加減はすばらしい」

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 日本人は、なにかあると「いい加減にしておきなさい」と言います。・・(中略)・・「いい加減」は、すばらしい心の持ち方だと思います。ほどほどに余裕を残し、決定的なことはしない。日本文化には、臨機応変に加えたり減らしたりすることのできる「いい加減」の精神があります。
 そしてこの精神は、長寿の心得にも相通じるのではないかと思います。・・(中略)・・元来、人は、食べ過ぎてもいけないし、少な過ぎるのもいけない。飲み過ぎるのもよくないけれど、長生きしたいからと言って、我慢してやめるのでは、生きている甲斐がありません。働き過ぎるのはよくないし、なにもせずにゴロゴロしているのもよくない。なんでもいい加減に調整するのがいいのです。(pp.39-42)
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 日本の暮らしのなかでは、本当にこの「加減」=ほどほどで決定的なことをしない、言い換えると、日本人の中には自然に曖昧さの文化がしみこんでいて、決定的でないからこそ、無駄なトラブルを起こさないで、事の成り行きとともに自然に解決・解消されていく事々があるように感じます。それが、日本人には《上手く生きる術》として身についているのでしょう。
 それを日本の文化として意識をするようになったのは、やはり外国の方々との関わりのなかです。彼らは、加減(基点±α)という曖昧の存在や、その意義を理解するのが難しいといいます。そして、それをどう説明すればよいのか、それも難しいのです。
 イタリア人は、とてもテンポ良く話を進めます。そして何かの質問や提案に関しても《即座に》yesまたはnoで返答しています。どうすればそんなにすぐ決められるのか、とりわけ大切な案件については、あれこれ考えてしまってとてもすぐには判断できません。ですから、いつも私に尋ねられると、会話を中断させてしまいます。結局、yesともnoとも言えない私の回答を待ちきれずに、彼らは会話を再開していきます。そして時々、私が《話を無視する》というのです。決してそうではないのですが、そう受け取られてしまうのです。私に足りないのが、コミュニケーション力なのか、会話力なのか、ノリなのか、判断力なのかわかりませんが、おそらくそれを総合したものなのでしょう。
 余談になりますが、イタリアの大学入試問題は、日本での国家資格の試験のように、多数の問題を短時間でこなすスタイルです(1問30秒くらいでしょうか。問題自体はさほど難しいものではなく、速度・時間・距離の計算問題が出ていました)。明らかに素早い判断が求められますし、効率的に物事をこなすトレーニングがなされているようです。イタリア人はゆったりのんびりしていると認識されがちですが、それは余暇を過ごす彼らであって、その余暇をいかにたくさん確保するかが最大の課題である彼らは、日々、いかに効率よく、無駄を一切省いて仕事をこなすか、それを意識しています(そういえば、すごい集中力を持っているように感じます)。ですので、日本の《加減に含まれる余白部分》は、なかなか理解しがたいものなのかもしれません。