ひらく*つくる*暮らす

人生とは、自分でいくつもの扉をひらき、こつこつとつくりあげていくもの。イタリアと鳥取に住まうアラ還国際婚夫婦が、幸せになるヒントを追求&発信するblogです

『103歳になってわかったこと』(篠田桃紅)幻冬舎

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(9)「過去を見る自分の目に変化が生まれる」

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 達観するようになったというのは、歳をとって得たものの一つだと思います。若いうちはいくら客観視していたつもりでも、自らがその渦中にいますから、ものごとを客観的に見ることに限界がありました。
 しかし、歳をとるにつれ、自分の見る目の高さが年々上がってきます。今までこうだと思って見ていたものが、少し違って見えてきます。同じことが違うのです。同じ過去が、10年前の90代と今とではずいぶん違って見えます・・(中略)・・
 そして、未来を見る目にも変化が起こります。・・(中略)・・今、未来を見ると、その瞬間、その未来を肯定する気持ちと否定する気持ちが同時にやってきます。・・(中略)・・歳をとれば、人にはできることと、できないことがあることを思い知ります。それはできなくて悲しいというよりもあきらめることを知ります。ここまで生きてこれだけのことをした。まあ、いいと思いましょうと、自らに区切りをつめなくてはいけないことを、次第に悟るのです。老いるということは、天へと続く、悟りの階段を上がっていくことなのかもしれません。(pp.26-29)
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 この文章を読んだとき、自分を、社会を、ある程度客観視していると思っている自分が恥ずかしく思えます。《もう50代後半》という自分からみた視点も、篠田さんからすれば《まだまだ半分ほど》しか人生を経験していない青二才の視点でしかないということ。
 私は、自分よりもずいぶんと先輩の方と話をするのが好きです。そこには、自分の先を照らす灯台のように、示唆に富む事柄がたくさん含まれているからです。お年寄りの方と話をすると、昔語りに花が咲き、そして私達後輩へ思いを託されます(こうすればよかった、こうするといいよ・・・というように)。それぞれの生きてこられた経験や体験、思い、考えは、貴重な遺産であるのもかかわらず、その多くは記録されることなく死とともに消えてなくなってしまいます。
 以前、哲学を基盤とした老人学が追究されてもよいのに・・・と思ったことがありました。親の老いと自分の来る老いを意識し始めた40代の頃です。今、職業生活からは遠のき、時間もたっぷりあり、エネルギーもまだあります。人生100年時代と言われるようになった今、なにか始められないものか・・・。そのためには仲間がいなくては・・・。篠田さんのこの書を手にしたときから、ふつふつとその思いが湧いてきました。